2012/01/02

「好き」の一貫性について


新年も変わらず、思ったことをぼやきとして垂れ流していくよ。



なんの目的があるのか分からない人の行動は
因果のわからない出来事は外から見て不気味だ。
理不尽、不条理と呼んだりもする。

昨日見たこの記事をもう一度引用してみる。

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好きというのは、努力して見いだして貫くようなものではなく、
自然体で生きているうちに、結果として動的平衡として好きなことをやっている自分という
状態になるのではないか。
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分裂勘違い君劇場 -「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

意識よりも無意識が優位であって、さらに「好き」は自然体で生きているうちに自然にそこに「ある」ものだというなら、「好き」の因果がわからなくなってくるということになる。

両親がセックスしたから、自分が生まれたという因果は明らかだ。
ではなぜセックスをし、自分を生んだのかという問が生まれ、この問への答えを求めれば、愛し合っているから、という理由があるだろうが、もしこの理由が意識よりも無意識が優位であってさらに動的に移り変わると言われたら、どう感じるだろう。

両親が「好き」合った理由が、意識よりも無意識が優位でしかもそれが動的に「移り変わる」などと言われたら、自己肯定感に関わってくるのではないか?
だって、自分が生まれてきた理由がよくわからなくなるのだから。
自分の存在が不気味になる。

「自分はこれを好きだ」という静的な定義をしないことが
はたして本当に、拘束具からの解放を意味するのであろうか。
僕には分からない。

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